基礎理論コース QRコード収録項目

第2章 ものの見方・考え方 ー唯物論と弁証法

第一部 哲学 第2章(このページ) 第3章
第二部 経済 第4章 第5章 第6章
第三部 階級闘争論 第7章 第8章 第9章

■【補論1】中国の観念論と唯物論 57ページ
■【補論2】宗教とはなにか 66ページ
■【補論3】日本の唯物論と弁証法 57ページ

【補論1】中国の観念論と唯物論 57ページ

 中国の古代では、観念論は「天」の思想として登場しました。すなわち「天」は偉大な意思と力をもち、自然界や人間界を支配するものとして、畏怖と崇敬の対象にされたのです。「天」についてのこのような神秘宗教的な観念(客観的観念論)を打破し、合理的な唯物論の立場を掲げたのは、古代最大の思想家である荀子(前320頃~前220頃)でした。彼は、意識も意図もなく万物を生成する「天(=自然)」と、意識的・意図的に活動する人間とを区別し、「天」と「人」との立場を逆転しました。

 近世になると、世界を「理」(観念的原理)と「気」(物質的原理)との結合として二元論的に解釈する朱熹(1130~1200)の学説(客観的観念論)が現れました。ここで「理」とは、事物の存在根拠とされるその事物の「意味」です。それは、物質的自然を超越した一種の観念的存在ですが、同時に事物に内在してその在り方を決定している、と見なされます。「気」とは、自らの運動によって事物の「形象」を生み出す物質的存在です。

 また「心即理」「知行合一」などのスローガンを掲げ、「心」に外在する事物の存在を否認する王陽明(1472~1528)の学説(主観的観念論)などが現われました。それぞれが高度な体系を築きました。

 これに対して、宋代の張載(1020~1077)、明代の王廷相(1474~1544)や呉廷翰(1490~1559)、清代の王夫之(1619~1692)や戴震(1723~1777)らは、「気」一元論を掲げ、それぞれ独自の観点から唯物論哲学を展開しました。なかでも、王夫之が唯物論を弁証法と結合して、事物の運動を「合」→「分」→「成」の過程として捉えたことが注目されます。王夫之はこの「分」をさらに「対」(区別)→「反」(対立)→「仇」(矛盾)の三段階に区別します。「仇」の解決として成立するのが、新たな「合」としての「成」なのです。

 また、戴震は、朱熹に代表される「理」の観念論を精密な論理によって批判しつつ、哲学的諸概念を「事実概念」と「価値概念」に分類し、その基礎に立って、科学的であるとともに人間味豊かな「仁」の倫理学を打ち立てました。この哲学は、現在の私たちにも多くの示唆を与える学説として高く評価されます。

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【補論2】宗教とはなにか 66ページ

 宗教とは、神、仏、精霊、霊魂など、人間の力を超えた、超自然なものへの信仰と、それと直接に結びついた思想、感情、行為の総体、と定義することができます。宗教の発生は原始社会にさかのぼります(原始宗教)。その後、社会の発展段階に応じて、民族宗教(ユダヤ教、ヒンズー教、道教など)から、世界宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)へと変化してきました。

 階級社会の宗教は、聖職者と信者たちの組織(教団)や施設(社寺、教会など)をもち、法規(戒律、律法など)をそなえています。それだけに、宗教は信者の意識や行動を強く規制し、文化だけでなく、政治や社会にも影響力をもってきました。歴史的には宗教は支配権力と結びつくことが多かったのですが、民衆が宗教を旗印にして解放の運動を展開することもありました(ドイツ農民戦争、一向一揆など)。

 マルクスの先輩の唯物論者であるフォイエルバッハ(1804~1872)は、宗教の批判を行いました。フォイエルバッハによれば、人間は人間の理性や意志や愛をもとにして、絶対的な理性や意志や愛をもつ「神」をつくったとされます。キリスト教の聖書は「神が人間をつくった」と言いますが、しかしフォイエルバッハは逆に「人間が神をつくった」と言うのです。ところが、人間が絶対的な神にすがって生きることは、人間をまったく貧弱なものにしてしまいます。神が主体的であるほど、人間は主体性を失うことになります。これがフォイエルバッハのいう「宗教的な自己疎外」です。フォイエルバッハは宗教をこのように批判しました。しかし彼は宗教への批判にとどまりました。

 それに対して、マルクスは、人間が神をつくり、宗教の世界をつくらざるをえないのは、現実の世界が民衆にとって生き苦しく、悲惨なものだからだと言います。若いマルクスは、「宗教的な悲惨は、ある人には現実の悲惨の表現でもあれば、ある人には現実の悲惨に対する抗議でもある」と言いました。現実が悲惨だからこそ、たとえ宗教がフォイエルバッハの指摘する「人間疎外」という悲惨を含んでいたとしても、宗教は、民衆の苦悩を緩和するとして、民衆に信じられるのです。その意味で、宗教は現実の悲惨の表現でもあれば、現実の悲惨に対する抗議でもあるのです。

 しかし社会の現実から生じる民衆の悲惨は、宗教だけでは解決できません。マルクスは、民衆の苦しみの最大の原因は、現実の世界で富や権力が一部の人に独占されて、多くの民衆が貧困で抑圧された状態にあることであると考え、現実社会を変革しなければならないと言います。こうして、マルクスは現実社会の分析とその変革に向かって進みました。ここにも、マルクスの「新しい唯物論」の特徴があります。

 今日では、人間の権利として「信教の自由」が保障されています。どんな宗教を信じても、また信じなくても個人の自由です。宗教の活動が、社会の進歩(平和、民主主義、福祉など)と結びつくこともあれば、戦争肯定や反社会的行為に結びつくこともあります。マルクスの視点から、唯物論は社会の進歩と結びつく宗教と協力することができます。

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【補論3】日本の唯物論と弁証法 57ページ

 日本において、哲学が宗教思想や芸術思想から独立し、それらしい形態を採ったのは、やはり近世 (江戸時代) になってからでしょう。その端緒を開いたのは、幕藩体制を支える理論として中国から輸入された朱子学、つまり「理」「気」二元論に立つ「客観的観念論」の哲学でした(「理」「気」二元論については、コラム「中国の観念論と唯物論」、参照)。

 これに対抗して、「気」一元論の世界観を打ち出したのは、市井の儒者・伊藤仁斎 (1627~1705) でした。宇宙に充満した「気」の運動だけで森羅万象の生成を説明するのですから、これは明らかに唯物論の哲学です。

 日本の近世唯物論の特徴は、それが多くは弁証法と結びついていたことです。伊藤仁斎の採用した「気」一元論も、「静」を中心とした朱子学とは反対に、「動」を中心として考えられた世界観であり、しかもそのなかには「流行-対待」という弁証法的契機を含むものでした。「流行」とは、たえず運動し変化する「気」の状態であり、「対待」とは「流行」中の二つの契機が対立し合っている状態をいいます。

 「弁証法」という側面で大きく貢献したのは、江戸中期の安藤昌益 (1703~1762) と三浦梅園 (1723~1789) です。安藤昌益は「互性活真」という弁証法的な理法を掲げました。「互性」とは、事物に含まれる対立要素が、その相互媒介の作用によって、互いに相手の性質を自己の内に獲得した状態であり、「活真」とは、「互性」を含むことによって内容を充実し活発に働く真実在の状態です。安藤昌益は、ここから階級支配や男女差別を批判し、さらに平和思想や環境思想など、はるか現代に通じる思想を打ち出しました。

 三浦梅園は「反」と「合」の弁証法的な関係に鋭い洞察を加えました。彼によれば、すべての実在は「一有二、二開一」という弁証法的構造(現代風に言えば、「対立物の統一・相互浸透」のこと)をもっています。したがって、これを捉えるには、思惟の側も、物事の一面性に捉われることなく、「反観合一」という弁証法的な操作を必要とすると考えました。それは、事物の真相 (条理) に到達するための思考の方法であって、事物の一面を見たら、必ず他の一面にも眼を向け、その総合 (合一) から真理を導くことです。彼の「反」の思想で重要なもうひとつの点は「意の有無を反す」ということ、つまり意識と物質との区別と連関を明確にするということです。「反」の語は梅園独特の用法です。それは、現実を正しく捉えるには、まずその対象が意識を具えた存在であるか否かを区別することが肝心、という趣旨です。これは唯物論の在りかたを考える上でも重要な視点です。 中国の古代では、観念論は「天」の思想として登場しました。すなわち「天」は偉大な意思と力をもち、自然界や人間界を支配するものとして、畏怖と崇敬の対象にされたのです。「天」についてのこのような神秘宗教的な観念(客観的観念論)を打破し、合理的な唯物論の立場を掲げたのは、古代最大の思想家である荀子(前320頃~前220頃)でした。彼は、意識も意図もなく万物を生成する「天(=自然)」と、意識的・意図的に活動する人間とを区別し、「天」と「人」との立場を逆転しました。

 近世になると、世界を「理」(観念的原理)と「気」(物質的原理)との結合として二元論的に解釈する朱熹(1130~1200)の学説(客観的観念論)が現れました。ここで「理」とは、事物の存在根拠とされるその事物の「意味」です。それは、物質的自然を超越した一種の観念的存在ですが、同時に事物に内在してその在り方を決定している、と見なされます。「気」とは、自らの運動によって事物の「形象」を生み出す物質的存在です。

 また「心即理」「知行合一」などのスローガンを掲げ、「心」に外在する事物の存在を否認する王陽明(1472~1528)の学説(主観的観念論)などが現われました。それぞれが高度な体系を築きました。

 これに対して、宋代の張載(1020~1077)、明代の王廷相(1474~1544)や呉廷翰(1490~1559)、清代の王夫之(1619~1692)や戴震(1723~1777)らは、「気」一元論を掲げ、それぞれ独自の観点から唯物論哲学を展開しました。なかでも、王夫之が唯物論を弁証法と結合して、事物の運動を「合」→「分」→「成」の過程として捉えたことが注目されます。王夫之はこの「分」をさらに「対」(区別)→「反」(対立)→「仇」(矛盾)の三段階に区別します。「仇」の解決として成立するのが、新たな「合」としての「成」なのです。

 また、戴震は、朱熹に代表される「理」の観念論を精密な論理によって批判しつつ、哲学的諸概念を「事実概念」と「価値概念」に分類し、その基礎に立って、科学的であるとともに人間味豊かな「仁」の倫理学を打ち立てました。この哲学は、現在の私たちにも多くの示唆を与える学説として高く評価されます。

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