基礎理論コース QRコード収録項目

第8章 日本社会の変革をめざして

第一部 哲学 第2章 第3章
第二部 経済 第4章 第5章 第6章
第三部 階級闘争論 第7章 第8章(このページ) 第9章

【コラム】戦前日本の支配体制の特徴(半封建的な地主制度、治安警察法、治安維持法
【補論】日本の侵略戦争
【補論】戦後改革と憲法(この民主的改革)
【コラム】憲法第9条の発案者について
【コラム】第9条にもとづく措置(非核三原則、防衛費GNP1%枠、武器輸出三原則)
【コラム】象徴天皇の危険性(象徴天皇制の制度)
【コラム】安倍首相の「戦争する国」をめざす政策(戦後レジームからの脱却、教育基本法の改悪、国民投票法、『血の同盟』)
【コラム】労働戦線の第2次右翼的再編(スト権ストの挫折、同盟・JC主導の労働戦線の右翼的再編、労働戦線の右翼的再編が本格化、『進路と役割』、連合〈日本労働組合総連合〉)
【コラム】たたかうナショナルセンター

 ●明治維新 ●自由民権運動   ●民間の私擬憲法草案
 ●大正デモクラシー  ●戦前の争議の事例  ●対支非干渉運動(対華非干渉運動
 ●明文改憲・実質改憲・解釈改憲  ●朝日訴訟  ●家永教科書裁判
 ●「政令201号」  ●謀略事件  ●レッドパージ
 ●1960年の密約  ●沖縄返還時の「核」密約  ●2001年の9.11テロ事件
 ●集団的自衛権  ●SACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)合意  ●日米原子力協定
 ●地位協定の比較(日・独・伊)  ●「輸出依存型経済構造」  ●「新時代の『日本的経営』」
 ●民主党政権  ●靖国派  ●「ジェンダーフリー教育」
 ●「アベノミクス」  ●日米安保体制からの離脱  ●「ルールある経済社会」
 ●産別会議(全日本産業別労働組合会議)  ●2・1ゼネスト  ●勤評反対闘争
 ●警職法反対闘争  ●安保闘争  ●三井三池闘争
 ●革新自治体の敗北  ●労働法制改悪  ●事実上の共同行動
 ●2011年東日本大震災と福島原発事故    

第1節


【コラム】戦前日本の支配体制の特徴(半封建的な地主制度、治安警察法、治安維持法) 332~333ページ

 戦前の日本において今日とは大きく異なる特徴的な制度として、半封建的な地主制度と治安警察法・治安維持法という弾圧法規があります。

 半封建的な地主制度というのは、地主・小作関係に基礎をおく土地所有制度のことです。戦前の支配体制の構成要素の一つで、地主は農民に土地(小作地)を貸し付け、収穫の半分以上にもなる高い小作料を多くは現物の形態で取り立て、これを売って税金(地租)を納め差額を手に入れました。そのため農民は生活が困窮し、農村は低賃金労働力と兵士の供給源になりました。幕藩体制下での封建的な制度がかたちを変えて残されたため、「半封建的」と呼ばれます。

 治安警察法・治安維持法というのは戦前の弾圧立法です。治安警察法は日清戦争後に高まりを見せ始めた労働運動を取り締まるために1900年に制定された法律です。それまで自由民権運動を念頭に置いて政治活動を規制した集会及政社法に労働運動の規制という新たな機能を付け加えて制定されました。敗戦直後の1945年11月に廃止されています。他方、治安維持法は国体の変革や私有財産制度の否認を目的とした結社を組織したり、参加したりすることを取り締まるために1925年に制定されています。28年の緊急勅令による改定で最高刑に死刑が導入されたほか、結社の仲間でなくても目的遂行のための行為をしたとみなされれば処罰されました。対象の曖昧さや拡大解釈などによって反政府的な思想や言動はほとんど弾圧され、言論や思想の自由が奪われました。戦後の45年10月に廃止されています。

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【補論】日本の侵略戦争 333ページ


 侵略とは、ある国家や武装勢力が別の国家や武装勢力に対して、自衛ではなく一方的にその主権・領土や独立を侵すことをいいます。この侵略のために武力を用いた戦争が侵略戦争です。日本は、日清戦争(1894~95年)によって台湾を植民地化し、日露戦争(1904~05年)によって朝鮮を手に入れました。満州事変(1931年)で中国東北部(満州)を侵略し、日中戦争(1937~45年)を引き起こします。さらにアメリカなどとの対立を激化させ、太平洋戦争(1941~45年)に突入します。ドイツやイタリアと共に「3国同盟」を結んで第2次世界大戦(1939~45年)にも加わりました。
 戦争に悲劇はつきものですが、アジア・太平洋戦争の末期にも数々の惨劇が生じました。1944年10月のフィリピン戦では日本軍10万人、フィリピン人100万人が死に、45年3月からの沖縄戦では12万人以上の民間人が犠牲になりました。3月の東京大空襲など米機による空爆で50万人の民間人が犠牲になっています。45年8月の原爆投下によって、広島では14万人(6日)、長崎では7万人(9日)が亡くなりました。また、敗戦間際のソ連参戦などによって20万人が命を失っています。
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【補論】戦後改革と憲法(この民主的改革) 337ページ


 戦後の日本では様々な改革が実施され、その理念は新しい憲法にも盛り込まれました。戦後に実施された重要な改革の一つは農地制度の改革で、占領軍の強力な指導によって実施されています。幣原内閣は1945年12月に第1次農地改革を提案しましたが、不徹底だったために46年10月、第2次農地改革案が作成されました。これは地主制の解体と自作農創設のための小作地の解放、小作料の引下げと金納化、不在地主の一掃をおもな内容としています。これによって、天皇制を支えていた経済的基礎である半封建的地主制度が解体され、国内市場の拡大と日本経済の近代化や急成長に向けての基礎が形成されました。
 また、財閥解体も実施されました。これは1945~52年におこなわれたGHQによる占領政策の1つで、同族的支配の性格を持つ戦前の大企業集団(財閥)の解体のことです。持ち株会社の解体、財閥家族の企業支配の排除、株式所有の分散化などが主な内容で、「侵略戦争の経済的基盤」の壊滅を目的とした経済民主化政策です。これにより、三井・住友・三菱・安田・富士の解体を指定した第一次財閥解体から、財閥傘下の持ち株会社を解体した第五次までの指定が行なわれ、約80以上の財閥が解体されました。しかし、独占大企業そのものは解体されず、やがて復活強化することになります。
 労働組合活動の自由の実現も戦後改革の一環として実施されたものです。戦前には治安警察法などによって労働組合活動は事実上禁止され、労働基本権も制約されていました。戦後、治安警察法は廃止され、日本国憲法第28条や労働三法(労働基準法、労働組合法、労働関係調整法)の制定によって、団結権、団体交渉権、争議権などが無条件で認められるようになります。労働組合活動の自由が勝ち取られ、使用者による長時間の酷使や解雇権の濫用が法によって規制されることになりました。
 女性による参政権や政治的権利の獲得という女性の解放も戦後改革の重要な内容をなしています。戦後の1945年8月、市川房枝などによって「戦後対策婦人委員会」が組織され、婦人参政権と政治的権利を要求しました。その後も「主婦連合会(主婦連)」など、女性が担い手となった政治結社がいくつも作られています。45年10月10日の五大改革指令で「参政権賦与による日本婦人の解放」が盛られ、11月21日には治安警察法の廃止によって女性の結社権が認められました。12月17日の改正衆議院議員選挙法公布で女性の国政参加が可能になり、日本国憲法第14条の「法の下の平等」で女性参政権が明確に保障されることになります。
 両性の平等も戦後改革の大きな課題でした。女性は「家」に縛られることなく、家庭生活における個人の尊厳と両性は本質的平等であるということです。明治憲法下では家長による絶対的支配権と長男の家督相続権を柱とする「家」制度が存在し、家長である戸主が家族を統率して女性は絶対的な服従を強いられました。憲法24条は夫婦関係について平等で自由な人的結合であるべきことを示し、これに基づく民法の改正によって、結婚の自由、姓の選択の自由、相続の権利、親権の平等など、女性の権利は大きく向上することになります。しかし、夫婦別姓が認められないこと、世帯単位の戸籍制度、非嫡出子の差別的扱いなど、未解決の問題が残されています。
 さらに、地方自治の実現もあります。これは領土内の一定地域を基礎とする団体が自己の行う業務について決定し処理することで、中央に対する地方の関係(団体自治)と団体と住民との関係(住民自治)によって成り立ちます。国は国家全体の運営について均一的な運営を行うことが要請されますが、地方の実情や住民からの要望は様々ですからすべて同一に運営することはできません。そこで、地方の総合的な運営は地方に委ね、国は総合的な調整を図るという分担が必要になります。1947年に地方自治法が制定され、内務省の監督が廃止されました。都道府県と市町村は対等な自治体となり、府県以下の首長は公選になります。
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【コラム】憲法第9条の発案者について 338ページ


 1946年1月24日の幣原首相とマッカーサーとの会談で、憲法9条に結びつく構想は合意されていました。その構想の発案者をめぐっては、これまで「マッカーサー説」や「幣原首相説」などがありましたが、近年「9条幣原説」を裏付ける新しい資料が発見されたと報道され、にわかに「幣原説」が有力になりました。その新資料とは、1957年に当時の岸信介内閣のもとで改憲論議を始めた憲法調査会の高柳賢三会長とマッカーサーとの往復書簡の中で、高柳の質問にマッカーサーが回答したものです。回答では「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」「提案に驚きましたが、首相にわたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」とマッカーサーは述べています。しかしこれもマッカーサーの発言で、これまでの資料の域を出る決定的なものではありません。1月の会談で、少なくとも天皇制を残すためには戦争を放棄するような規定が必要であり、そうしなければ世界の国々とりわけ日本の侵略の犠牲になったアジアの国々からは許されないだろうという点では幣原とマッカーサーは意見が一致したということはいえます。幣原首相にとっては、天皇制を残すことが最優先の課題だったのです。
 大切なのは、憲法9条ができたのは、幣原やマッカーサーが「平和主義者」であったからではありません。戦争放棄と軍備の禁止を原則とする憲法でなければ、ファシズムと軍国主義の悲劇的体験をした連合国をはじめとする国際世論が許さなかったからです。このように、日本国憲法の制定には、国際的な反ファシズム・反戦平和・人権と民主主義の世論とそれが結実した不戦条約・国連憲章・ポツダム宣言が反映したということです。
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【コラム】第9条にもとづく措置(非核三原則、防衛費GNP1%枠、武器輸出三原則) 339~340ページ


 日本の防衛政策の重要な柱の一つは防衛費(軍事費)1%枠という原則で、日本の軍事費をGNP(国民総生産)の1%以下に抑制する政策のことです。1976年に毎年度の予算枠として三木内閣によって決定されました。1987年の第3次中曽根内閣によって撤廃されるまで、歴代内閣はこの枠を維持し1967年度以降は1%を切っていました。その後、総額明示方式へと転換してからも軍事費がGDP(国内総生産)1%を超えたのは1987年度からの3年度連続でしかなく、その数値も僅かな超過にとどまっています。
 日本は核兵器についても「造らず、持たず、持ち込ませず」という非核三原則という基本的政策を採用しています。1967年12月に佐藤栄作首相が国会答弁で述べたもので、野党は国会決議とするように要求しましたが、政府・自由民主党は応じませんでした。しかし、71年 11月に沖縄返還協定の承認と関連して衆議院で決議されました。以来、この政策は「国是」とされていますが、日本政府は日米軍事同盟の下で米軍の「核の傘」に入ることを容認し、「核密約」などもあって形骸化されています。この三原則を厳密に守らせ、非核の日本を実現することが必要です。
 また、武器などについても、かつては武器輸出三原則が採用されていました。これは法律で規定されたものではなく政令運用基準です。1967年に佐藤首相は、①共産圏諸国、②国連決議による武器禁輸対象国、③国際紛争の当事国またはそのおそれのある国には武器輸出を認めないと表明しました。三木首相は1976年に、「武器」を「軍隊が使用し、直接戦闘の用に供されるもの」と定義し、①三原則対象地域については武器の輸出を認めない、②それ以外の地域については武器の輸出は慎む、③武器製造関連設備の輸出については武器に準じて取り扱うという、従来の政策を強化する統一見解を表明しています。しかし、以後はたびたび例外が認められ、三原則は空洞化していきます。その後、2014年に安倍首相は武器輸出を原則自由化する防衛装備移転三原則に置き換えてしまいました。
 専守防衛も日本の「国是」とされてきたもので、他国を攻撃せず、自国の防衛に備えるという日本の防衛戦略の基本的姿勢のことです。「相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し、その防衛力行使の態様も、自衛のための必要最低限度にとどめ、また保持する防衛力も自衛のための必要最低限度のものに限られる」という内容でした。このような基本姿勢によって、相手の基地を先制攻撃したり、領海や領空を越えたりして攻撃できる能力を持つ兵器や装備の所有は許されないとされてきました。しかし、これも2015年の安倍内閣による安保法制(戦争法)の成立によって集団的自衛権の行使が部分的に容認され、空洞化が進んでいます。
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【コラム】象徴天皇の危険性(象徴天皇制の制度) 344ページ


 戦前の明治憲法では天皇が主権者で、国を統治するすべての権限を天皇が握っていましたが、日本国憲法においては、天皇はあくまで「象徴」であって主権者は国民となり、天皇の制度は根本的に変わりました。
 象徴である天皇の権限については、「この憲法の定める国事に関する行為」だけに限定され、「国政に関する権能」を認められていません(憲法第4条)。その国事行為は、第4条、第6条、第7条で定める13項目に限定されています。天皇は、政治的な権能は一切もたず、形式的・儀礼的な行為しか行うことができない存在です。しかもすべて「内閣の助言と承認を必要」とする(憲法第3条)とされています。
 しかし現実には、天皇は各種行事への出席、被災地などへの訪問、戦地への巡礼、外国からの来客接待、外国訪問など、さまざまな「任務」をしています。これらの「任務」は、憲法上の規定がないにもかかわらず、「公的行為」と呼ばれ、事実上、天皇の「任務」の一環として位置づけられています。天皇の行為が無限定に広がっていく危険性があります。そしてその行為は内閣の「助言と承認」のもとにおこなわれます。天皇の象徴としてのあり方を決めるのは内閣ということになります。その意味で内閣の責任は重大です。象徴天皇の制度の下では、内閣が天皇を政治利用する危険性が大きいといえます。このような憲法の規定と精神から逸脱した天皇の政治利用をつうじて、国民の主権者意識を眠り込ませ、民主主義的な意識や感覚が歪めさせられていきます。象徴天皇の肥大化を許さず、憲法の規定と精神に従って、主権者国民が天皇を全面的にコントロールすることが重要です。
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明治維新 322ページ

 徳川幕藩体制を解体し、天皇制国家を樹立して近代化をすすめる政治的変革、社会的変革でした。明治維新は日本の資本主義化=近代化の出発でしたが、担い手は薩摩・長州・土佐の3藩を中心とする武士たちでした。武士たちは封建支配層に属しており、その一部が倒幕派となり、「王政復古」というかたちで権力を握ったのです。成立した政府が、「上からの改革」を強引にすすめて、日本社会の近代化をすすめました。その特徴は、民衆を政治から排除し、市民ではなく伝統的勢力(改革派の武士たち)を担い手とする国家による「上からの改革」でした。
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自由民権運動 335ページ

 日本の近代の出発点である明治維新は市民革命といえるものではありませんでした。したがって、明治維新でできなかった政治や社会の民主化を求める運動が避けられなくなり、国会開設、地租軽減、条約改正を3大要求とする自由民権運動がはじまります。その意味で、自由民権運動こそ、日本における市民革命の運動といえました。
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民間の私擬憲法草案 335ページ

 民間の政治結社などによって作成された明治憲法の私案。国会開設の論議が盛んになった1880年ころから各地で憲法の研究がおこなわれ、草案が発表されました。現在では60以上の存在が知られています。土佐の立志社や自由党系のものがもっとも急進的で、植木枝盛起草の「東洋大日本国国憲按」は人民主権論の立場に立っています。
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大正デモクラシー 335ページ

 元老・枢密院・貴族院・軍部などの特権的な力を弱め、日本に議会政治を実現しようとした運動です。指導理念が吉野作造の「民本主義」であったように、絶対主義的天皇制の枠のなかでの「民主的改革」を求める運動でした。
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戦前の争議の事例 336ページ

 戦前において注目される重要な争議としては、足尾暴動、川崎・三菱造船所争議、木崎村争議などを挙げることができます。
 足尾暴動は1907(明治40)年2月に足尾銅山で起こった鉱夫の暴動を伴う争議で、明治末期の労働運動の代表的かつ先進的な事例として注目されてきました。暴動のきっかけは2月4日の通洞坑での採鉱夫と現場係員の衝突で、7日に600人が検挙されて終結しました。事務所や社宅が打ち壊され、火も放たれたために65棟が破壊され焼失しています。一連の鉱山争議のトップをきったもので、もっとも大規模かつ尖鋭な闘争でした。暴動の3年前から労働者出身の社会主義者である永岡鶴蔵や南助松らによって大日本労働至誠会足尾支部という労働者組織が活動しており、これをつぶすために仕組まれた挑発の疑いが濃厚だと言われています。
 川崎・三菱造船所争議は1921(大正10)年6月から8月にかけて川崎、三菱両神戸造船所で発生した戦前最大の労働争議です。友愛会の「神戸連合会」が指導し、組合加入の自由と工場委員制度を要求しました。経営者側は大量の解雇とロックアウトで応じ、厳しい態度で臨みました。また、7月に労働者が「工場管理」を宣言してからは、警察に加えて憲兵隊が出動し、幹部300人が一斉に検挙されています。結局、争議は労働者の「惨敗宣言」をもって終息し、以後友愛会は大経営における影響力を失うことになります。
 木崎村争議は1923(大正12)~26年に新潟県北蒲原郡木崎村(現・新潟市北区)で起きた小作争議です。小作人らが日本農民組合支部を設立し、込米撤廃と減免の要求を掲げて小学児童の同盟休校、行商、無産小学校建設などの闘争を行ないましたが、結局、敗北しました。「日本の三大小作争議」の一つとして知られ、王番田争議(現・長岡市)や和田村争議(現・上越市)とともに新潟県の三大小作争議の一つに数えられています。
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対支非干渉運動(対華非干渉運動) 335ページ

 1927年に開始された中国国民革命軍の北伐に、日本政府が干渉しないように要求した労働・農民団体の運動。北伐がすすむと田中義一内閣は、27年5月山東出兵を強行、無産政党や労働団体はこれに反対する運動を展開しました。これは、日本の労働組合・農民組合・無産政党などが国際連帯をかかげ、民衆自身の手で中国への出兵反対、日中友好に取り組んだ画期的な運動です。対支非干渉全国同盟が結成され、山東出兵反対の声は全国に広がりました。しかし、田中内閣と警察による弾圧、内部の路線対立から分裂し、結局この運動は実を結びませんでした。しかし、日本の中国に対する武力干渉反対の一致点でさまざまな勢力が共同した意義は大きいといえます。
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明文改憲・実質改憲・解釈改憲 339ページ

 明文改憲とは憲法96条で規定されている発議と国民投票による憲法条文の書き換えです。実質改憲とは憲法の条文には手を付けずに内容や規定に反する法律の制定によって実質的な憲法の改定を行うことを意味しています。解釈改憲というのは、条文を変えず新たな法律の制定もなしに、憲法条文の解釈を変えることによってなし崩し的に条文の内容を変更してしまうことを意味しています。憲法が本来予定しているのは明文改憲だけであり、実質改憲や解釈改憲は、憲法改定の手段としては許されないやり方です。
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朝日訴訟 340ページ

 朝日訴訟は、岡山療養所に入所していた結核患者の朝日茂さんが、1957年8月、月600円の生活保護費では憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」を維持できないとして生活保護行政の抜本的改善を求めて起こした裁判です。「人間裁判」と呼ばれ、思想・信条をこえた広範な大衆団体や国民にささえられて、1960年、東京地裁で朝日さんの願いをほぼ全面的に受け入れる判決を勝ちとりました。とくに画期的なのは、憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」は、国の「恩恵」ではなく、国民の「権利」であり、「国は国民に具体的に保障する義務がある」と明快な結論をだしたことにあります。予算上の制約についても「最低限度の水準は決して予算の有無によって決められるのではなく、むしろこれを指導支配すべきもの」としています。
 朝日訴訟は最高裁までたたかわれますが、朝日さんの死亡もあり、1審判決から大きく後退した権力追随の判決をもって結審します。しかし、朝日訴訟は、日本の社会保障の貧困な実態を明らかにし、憲法25条の意義を問い直し、権利として生存権、権利としての社会保障という考えを国民のなかに浸透させるうえで大きな役割を果たしました。
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家永教科書裁判 340ページ

 高等学校の教科書『新日本史』の執筆者である家永三郎東京教育大学教授が教科書検定をめぐって日本国政府を相手に起こした一連の裁判。1965年提訴の第1次訴訟、1967年提訴の第2次訴訟、1984年提訴の第3次訴訟まで、三つの訴訟があります。1997年の最高裁判決で終結しましたが、初提訴から32年かかった「最も長い民事訴訟」です。最大の争点は「教科書検定は日本国憲法違反である」という主張でしたが、最高裁は「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」とし、家永側の実質的敗訴が確定しました。一方、検定内容については一部、国側の裁量権の逸脱があったことが認定されています。
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第2節


【コラム】安倍首相の「戦争する国」をめざす政策(戦後レジームからの脱却、教育基本法の改悪、国民投票法、『血の同盟』) 362ページ


 安倍晋三首相は、2006年の第1次安倍内閣以来、「戦後レジームからの脱却」「美しい国・日本を取りもどす」、そのために日本国憲法を変えると主張しています。安倍首相は、戦争への反省のうえにつくられた日本国憲法、戦争の結果日本が受け入れることになったポツダム宣言、そのポツダム宣言の趣旨にそってつくられた民主主義と平和の憲法体制を「戦後レジーム」と呼んでいます。「戦後レジームからの脱却」という主張の真のねらいは、日本国憲法の平和と民主主義の原理をかえようとするところにあります。安倍首相の改憲への執念はここからきているのです。
 そのために最初に行ったのが、教育基本法の改悪の強行です(2006年)。教育の目標に「我が国と郷土を愛する」ことを明記し、規律を重んじ、教育への介入ができるようにしました。そして前文の「この理想(憲法の理念)の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」という言葉を削除し、教育と憲法の一体的な関係を断ち切ってしまいました。
 2007年には、憲法96条にもとづく改憲手続きの具体化として、国民投票法を自民・公明両党で強行可決しました。この国民投票法には、「最低投票率」の規定がなく、有権者の20%台の賛成でも改憲ができ、有料広告の規制がほとんどないため資金力のある財界がバックにいる改憲派が圧倒的に優位になるなどの重大な問題を含んでいるばかりか、あまりの急造法律であったため膨大な未決着部分も残り、18項目にも及ぶ国会付帯決議が付くという欠陥だらけの欠陥法です。
 2012年12月、第2次安倍内閣が復活すると、秘密保護法を強行(13年)し、14年7月には集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をおこない、翌15年9月安保関連法(戦争法)の成立を強行しました。戦後の自民党政権は、憲法第9条2項があるため、自衛隊は「戦力」ではなく「自衛のための必要最小限の実力」であり、したがって海外での武力行使や集団的自衛権の行使、国連軍への参加はできないと説明してきましたが、これを一方的に踏みにじる暴挙をおこなったのです。これらは日米同盟を優先し、日本が「海外で戦争する国」になることをめざすものです。安倍首相は、「軍事同盟というのは"血の同盟"」だと言います。日本が攻撃を受けたときはアメリカの若者が血を流す、しかしアメリカが攻撃を受けたときには日本の自衛隊が血を流すことはない、これで「完全なイコールパートナーと言えるでしょうか」と、集団的自衛権行使を容認する改憲の必要性を主張しています。
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「政令201号」 348ページ

 冷戦が本格化し、アメリカの対日占領政策が「非軍事化・民主化」政策から「極東の工場、反共の防壁」へと転換した1948年7月22日、マッカーサー司令官は芦田首相に書簡を渡し、公務員法の全面改正と公務員労働者の争議行為の禁止、団体交渉の制約を指示しました。これを受けた芦田首相は、7月31日、国家・地方公務員の団交権を否認し、争議行為を禁止する「政令201号」を公布しました。このマッカーサー書簡は、これまでの「2・1ゼネスト」などへの介入などとは質がちがい、公務員労働者の憲法で保障されている労働基本権を制度的に否定するものでした。この後、国家公務員法、地方公務員法が改悪され、日本の公務員労働者からスト権が奪われることになります。
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謀略事件 348ページ

 1949年におきた下山事件、三鷹事件、松川事件の3つの謀略事件のこと。7月4日、国鉄が3万700名の首切りを発表。その翌日、国鉄労組と全逓の共同闘争宣言がだされますが、同じ日に下山定則国鉄総裁が行方不明になり、6日未明、常磐線綾瀬駅付近で轢死体となって発見されました(下山事件)。12日には第2次の国鉄の首切り(6万3000名)が発表された直後の15日夜、東京の三鷹駅で無人電車が暴走し民家に突入し、多くの死傷者が出る事件がおきました(三鷹事件)。さらに8月17日未明には、福島県松川町で列車が転覆し、機関車乗務員3名が死亡する事件がおきました(松川事件)。列車を転覆させたとして国鉄と東芝の組合活動家が逮捕されました。これらの事件は、大量の人員整理攻撃とたたかう労働運動をおさえるためのフレームアップ(謀略事件)であったことが明らかになってきましたが、労働組合運動に否定的な影響をおよぼすことになりました。
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レッドパージ 348ページ

 米軍占領下の1949~50年にかけて、日本共産党員とその支持者1万2000人以上を職場から追放した反共攻撃のことです。思想・信条を理由に活動家が職場から追われました。同時に、8月、全労連(全国労働組合連絡協議会)がマッカーサーの指令で解散させられました。
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1960年の密約 349ページ

 1960年の安保条約改定時に、岸内閣は、アメリカ言いなりの基地提供を隠し、国民の間の核への不安を解消するため、①米軍の配置に重要な変更をする場合、②米軍の装備に重要な変更(核持ち込みなど)、③他国への戦闘作戦行動の基地として使用する場合などは「事前協議」の対象にする制度を設けるから心配ないと国民に説明しながら、「核を積んだ軍用機や艦船の立ち寄りや通過は事前協議の対象にしない」「朝鮮有事の際の米軍基地からの出撃は事前協議の対象としない」で容認するなどの密約を交わしていました。この密約については、米文書や米国外務次官の発言で明らかになっています。なお、事前協議は今日まで1回も適用されたことはありません。
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沖縄返還時の「核」密約 353ページ

 1972年の沖縄返還交渉において、佐藤栄作首相とニクソン大統領の間で「核抜き・本土並み」返還で合意した際、「米軍の有事のさいの沖縄への核再持ち込み、嘉手納などの基地を核兵器貯蔵地として活用することを認める」などの密約が交わされました。返還前の沖縄の米軍基地には核兵器が配備されていたことから、「再持ち込み」という表現も使われています。
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2001年の9.11テロ事件 355ページ

 2001年9月11日、アメリカにおいて、ウサーマ・ビン・ラディーンに率いられるテロリスト集団「アルカイダ」にハイジャックされた民間航空機がニューヨークの世界貿易センタービルに激突し、乗客、乗員、貿易センターで働いていた人々、消火や救助活動にかかわっていた人々、合わせて2792人が死亡した事件。また別の飛行機は、国防総省のビルに突っ込み、乗客・乗員、国防総省職員など184人が死亡しました。さらにピッツバーグ近郊にも墜落しました。「同時多発テロ」とも呼ばれています。このテロ事件を契機にブッシュ大統領は、反テロ戦争を推進するとして「ブッシュ・ドクトリン」を発表し、アフガニスタン(01年)やイラク(03年)への軍事侵攻が強行されました。
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集団的自衛権 355ページ

 他の国が武力攻撃を受けた場合、直接に攻撃を受けていない第三国が自国への攻撃と見なして共同で防衛を行う国際法上の権利。国連憲章などでは認められていますが、日本の歴代内閣は憲法9条で許される自衛権は日本を防衛するための必要最小限の範囲にとどまるべきで、「集団的自衛権はその範囲を超え、憲法上許されない」としてきました。しかし、安倍内閣は2014年7月の閣議決定で解釈を変え、(1)日本と密接な関係にある他国が武力攻撃され、日本の存立が脅かされる明白な危険がある事態(存立危機事態、(2)我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない、(3)必要最小限度の実力行使、という新たな3要件を満たせば集団的自衛権による武力行使は可能だとして安全保障法(戦争法)を制定し、部分的な容認に転換しました。
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SACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)合意 357ページ

 SACOとは、1995年に発生した米兵による少女暴行事件にたいする沖縄県民の怒りに衝撃を受けた日米両政府が、翌96年12月、米海兵隊普天間基地など沖縄にある11の米軍基地について、県内への代替新基地建設などを条件に「返還」をとりきめた合意です。その具体化のためとして土地返還、訓練改善、騒音軽減などのための事業に日本政府が負担する予算がSACO関連経費(2019年度は256億円)です。これは「思いやり予算」などと同様、本来、日本政府が負担する必要のない支出です。
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日米原子力協定 357ページ

 1968年に締結された日米原子力協定は、日本がアメリカ製の軽水炉方式原子炉用の濃縮ウランを今後30年間、アメリカから受け入れることとしており、これにより日本の原子力政策は完全にアメリカに従属することになりました。使用済み核燃料や原発の資材の第三国への移転をふくめて、すべてにわたってアメリカの同意を必要とするものでした。その後1988年に協定は改定され、核燃料の再処理については、日本の自主裁量の範囲がひろげられますが、アメリカが主導権を握るという基本的な性格は変わらず、原子力行政の従属状態が現在も維持されています。
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地位協定の比較(日・独・伊) 359ページ
地位協定の比較
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「輸出依存型経済構造」 360ページ

 1960年代の日本経済の高度成長の主な推進力は輸出の拡大でした。60年代に日本は軽工業品輸出国から重化学工業製品輸出国に逆転し、65年には日本の貿易収支は黒字に転換します。アメリカのベトナム戦争の結果、「ベトナム周辺地域」への輸出が急増し、これが刺激となって国内の設備投資が活性化し、経済成長がすすむとともに、アメリカへの輸出が激増し、65年には戦後初めて対米貿易が赤字から黒字に転換し、その後も対米黒字が拡大していきます。こうして輸出の拡大は、好不況に関係なく日本経済の再生産構造にとって不可欠なものになり「輸出依存型経済構造」がつくられていきました。
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「新時代の『日本的経営』」 361ページ

 1995年5月、日経連(日本経営者団体連盟)は『新時代の「日本的経営」――挑戦すべき方向とその具体策』を打ち出しました。多国籍企業化のなかで生き残ることを口実に「総人件費の削減」「高コスト体質」の是正が不可避となったとして新たな雇用政策を提言したものです。その特徴は、いわゆる終身雇用慣行、年功賃金制度などを非効率として縮小・解体し、労働力を一部の正規エリート社員からなる「長期蓄積能力活用型グループ」、必ずしも長期雇用を前提としない専門職の「高度専門能力活用型グループ」、パート、派遣などの非正規雇用を「雇用柔軟型グループ」、と3つに分け、労働者の圧倒的な部分を、専門職を含めて非正規雇用にしようとするものです。その結果、短期間のうちに正規労働者が激減し、非正規労働者が急増しました。
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民主党政権 362ページ

 2009年8月の総選挙で民主党が大勝し、9月、社民党、国民新党との連合政権(鳩山由紀夫首相)が発足しました。この政権は「反自民」の一点で結集したもので、保守派・リベラル派・社会民主主義などきわめて雑多な潮流が存在します。結党時の民主党は「自己責任と自由意思を前提とした市場原理を貫徹することにより、経済構造改革をおこなう」「日米安保条約堅持」など大企業中心・アメリカいいなりの自民党と同じ保守政党としての性格をもっていました。しかし、民主党政権を誕生させた運動や国民の期待に後押しされて、労働者派遣法抜本改正や後期高齢者医療制度廃止などの反新自由主義改革の政策や、沖縄の普天間基地の国外移転政策のように、当初は保守の枠組みを超えるような方針を打ち出したが、財界、アメリカからの猛烈な攻撃をうけ、動揺・後退していきました。こうした財界、アメリカの圧力の下で、構造改革路線に復帰し、さらに自民党ですらできなかったような構造改革に踏み込んでいきました。野田首相の下で消費税増税法案を提案し、民主・自民・公明の三党合意によって社会保障と税の一体改革に踏み込んでいきました。構造改革政治からの転換を期待した国民は裏切られることになり、12年12月の総選挙で国民から厳しい審判を受けて、一野党に転落しました。
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靖国派 362ページ

 靖国神社は、日本の侵略戦争について「自存自衛」「アジア解放」の戦争であったと美化、正当化する特殊な立場に立つ神社です。そのことから、日本の侵略戦争は「アジア解放」の「正義の戦争」だったと美化したり正当化する歴史観、歴史認識を強力にもつ人や団体を「靖国派」と言います。
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「ジェンダーフリー教育」 363ページ

 教育の場で「男らしさ、男性であること」や男性の役割、「女らしさ、女性であること」や女性の役割を強制することでそれぞれの生き方などがゆがめられることなく、男女ともにより人間らしく生きられる社会をめざす男女平等教育として使用されてきた用語です。
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「アベノミクス」364ページ

 アベノミクスとは、「安倍首相の経済政策(エコノミクス)」という意味です。安倍首相は、①大胆な金融政策、②機動的な経済政策、民間投資を喚起する成長戦略を「3本の矢」と呼び、宣伝してきました。アベノミクスは、金融緩和などにより株価上昇や円安傾向に拍車をかけ、大企業や大資産家には法外な利益をもたらしましたが、労働者・国民には、物価上昇、実質賃金の連続的低下、非正規雇用の拡大、中小企業の倒産、米価暴落をもたらしました。「成長戦略」では、労働法制の抜本的改悪や法人税の引き下げなどがもくろまれていました。アベノミクスは、財政破綻、金融投機に拍車をかけ、貧困と格差を拡大し、日本経済をコントロール不能な困難に追い込む危険を拡大しました。
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第3節


【コラム】労働戦線の第2次右翼的再編(スト権ストの挫折、同盟・JC主導の労働戦線の右翼的再編、労働戦線の右翼的再編が本格化、『進路と役割』、連合〈日本労働組合総連合〉) 371ページ


 1964年に、同盟(全日本労働総同盟)とIMF・JC(国際金属労連日本協議会)が結成され、右翼的潮流の組織的拠点になります。同盟は、反共・親米・労使協調をかかげ、民社党を支持し、政府・財界との癒着を深めて労働戦線の「右翼的再編」をすすめます。1967年以降、民間部門の組織人員では総評を上回るようになりますが、この段階では労働運動の高揚と革新政党の進展によって、「右翼的再編」は実現しませんでした。
 こうしたなかで、国労(国鉄労働組合)を中心とする公労協(公共企業体等労働組合協議会)は、ストライキ権回復をめざして、1975年11月26日から12月3日までの8日間、戦後最大規模の全国的ストライキ(「スト権スト」)を実行します。しかし政府は、12月1日、「三公社五現業等の労働基本権問題等に関する政府の基本方針について」という声明を発表し、スト権を認めないことをあきらかにしました。「スト権スト」はそれまでの最高水準のエネルギーを発揮しましたが、具体的成果を勝ちとることはできずに敗北しました。この敗北を契機に、同盟・JC系の右翼的潮流によって労働戦線の右翼的再編が本格化します(第2次右翼的再編)。1978年の同盟大会で「民間先行」「左右の全体主義反対」の反共的な選別結集が提起され、右翼的再編は急速にすすみ、1982年に全民労協(全日本民間労働組合協議会)が結成されます。全民労協は、1986年に労働戦線の右翼的再編を進めるために新しいナショナルセンターの綱領的文書として「進路と役割」を発表します。「進路と役割」は、「政権を担いうる新しい政治勢力の形成に協力」することを「基本目標」とし、「自由にして民主的な労働運動の伝統を継承し、この理念のうえに立って労働者の結集をはかり、労働運動の発展を期す」と明記し、同盟が掲げてきた反共主義・労使協調主義・資本主義体制擁護の路線の継承をうたい、特定の理念に賛同する労働者・労働組合を結集する選別結集の立場を明確にしています。
 こうして、1989年11月に戦後の労働組合運動の主導権を握っていた総評が解散し、連合(日本労働組合総連合)が発足しました。同盟・JC系の右翼的潮流が戦後初めて労働運動の主導権を握ることになります。連合は、政府や資本から独立して、思想・信条の違いをこえて要求で団結するという労働組合の原則を踏みにじって結成されたわが国最大のナショナルセンターです。連合指導部やその傘下の大企業労組幹部は、政府や大企業と協調し、妥協する態度をとってきましたが、「構造改革」路線と大リストラのなかで、広範な傘下労働者や下部労働組合との矛盾を深めています。その矛盾の広がりは、連合路線の一定の変化をつくりだすとともに、安保関連法反対、派遣法などの労働法制改悪反対、過労死防止法制定などでは一致する要求で共同をしてきました。
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【コラム】たたかうナショナルセンター 374ページ


 労働戦線の右翼的再編の動きに反対し、たたかうまともな労働組合運動をめざす潮流は、1969年11月に安保条約廃棄、沖縄全面返還を中心課題とする「全民主勢力の統一のためのアピール」(38単産アピール)を発表して総評や同盟の「特定政党支持路線」を批判し、全民主勢力の統一戦線結成を訴えました。この「38単産アピール」支持が広がる中で、1970年3月、統一促進懇(全民主勢力の統一促進労働組合懇談会)がつくられます。この運動を出発点として、1974年12月、①政府、自治体への制度的要求の実現をめざす闘争の具体化、②経済的、社会的、政治的諸課題、その他必要な問題についての態度表明、③労働戦線のための必要な提言、④革新統一戦線結成のための必要な運動、⑤共同の学習、教育活動、⑥未組織労働者の組織化のための共同のとりくみなどの6項目の「申し合わせ」を確認して統一労組懇(統一戦線促進労働組合懇談会)が結成されました。
 統一労組懇は、労働戦線の右翼的再編の動きに対して、1979年6月、「労働戦線の真の統一のために」という呼びかけを発表し、階級的ナショナルセンター結成に向けての活動が本格化していきます。1980年代に入ると、右翼的再編が急速に進み、総評も解散を固めるという状況の中で、統一労組懇は、「階級的ナショナルセンター確立の展望と骨格案」(1987年7月)を発表し、階級的ナショナルセンターの結成が急務であることを強調しました。そして1988年12月、全国から50産別7000労組、1万人が参加して、階級的ナショナルセンター確立を正面から掲げた総決起集会が開催されます。
 こうして1989年11月、「資本からの独立」「政党からの独立」「一致する要求での行動の統一」の3原則をかかげた階級的ナショナルセンターとして全労連(全国労働組合総連合)が結成されました。全労連は、日本の階級的ナショナルセンターとしてさまざまな運動を呼びかけ、たたかい続けてきました。大企業の横暴と巨大な内部留保を社会的に告発し、職場・産別・地域のたたかいを結合して展開してきた国民春闘。リストラ反対闘争や権利闘争、広範な国民・団体とともに社会保障闘争や平和運動などの国民的課題にも取り組み、社会的に大きな役割を果たしています。組織的には、中央単産加盟にかかわらず自主的に加入できることを保障し、労働者に最も身近な職場と地域組織を重視して、運動と組織をつくろうとしています。
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日米安保体制からの離脱 365ページ

 日本社会の歪みのおおもとを変えるために、日米安保体制=日米同盟を支える日米安保条約をやめて、アメリカと真の友好関係をつくることが重要です。安保条約の第10条には「もっとも、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意志を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行われた後1年で終了する」と廃棄の手続きが定められています。安保条約が改定された1960年から「十年間効力を存続した後」である70年以降、日本政府が安保をやめると通告すれば、1年の準備期間を経て自動的に廃止することができます。したがって、国民のなかに安保廃棄の多数派を形成し、安保廃棄を通告する政府をつくることが決定的なことといえます。
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「ルールある経済社会」 366ページ

 国民の生活と権利をまもり発展させるための一定のルールを確立させた社会のことを「ルールある経済社会」と呼んでいます。「ルールなき資本主義」という現状を打破し、労働者の長時間労働や一方的解雇の規制を含め、ヨーロッパの主要資本主義国や国際条約などの到達点をふまえつつ、日本を「ルールある経済社会」にしていくことが求められています。
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産別会議(全日本産業別労働組合会議) 369ページ

 戦後の活発な労働組合再建運動のなかで、戦前の階級的・戦闘的労働組合の伝統を引き継ぎながら、戦前の分裂の歴史から学んで「政党支持の自由」を組織原則として掲げ、1946年8月、21単産163万人の組合員を組織して創立された全国組織(ナショナルセンター)。結成後その組織を拡大・発展させ、労働組合の産業別結集に努めました。
 46年、参加人員219万人の10月闘争や、47年の2・1ストの中心的役割をはたすなど、労働者の諸要求獲得と日本の独立と平和・民主化のたたかいで、労働組合運動の主力部隊となりました。また、労働戦線統一と国際連帯のために積極的に活動しました。
 しかし、米日支配層による弾圧と分裂策動、とくに1949~50年のレッド・パージによって大きな打撃を受け、困難ななかでも活動をつづけましたが、1958年2月解散しました。その階級的・戦闘的伝統をひきついで1989年に設立されたのが、全労連 (全国労働組合総連合)です。
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2・1ゼネスト 369ページ

 1947年2月1日に予定され、人民の生活危機突破の要求をかかげた公務員労働者260万人を中心に民間産業労働者も参加を予定したゼネス卜計画。400万から600万 人の参力が見込まれていました。
 全官公庁共闘は賃上げ、最低賃金制、勤労所得税撤廃などを政府に要求しましたが、吉田首相はこれを拒否。慣激した労働者は、産別会議、同盟をふくむほとんどの組合が参加する全国共同闘争委員会 (全闘)を結成し、2・1ストをかまえましたが、マッカーサーは占領軍の武力を背景にストを禁止しました。
 しかし、このたたかいは、経済要求や労働協約の獲得など多くの成果をあげ労働戦線の統一を促進しました。ゼネストの中止によって、共闘、全闘は解体されますが、この共同行動の流れが、47年3月、組織労働者の84%を組織する全国労働組合連絡協議会(全労連)を発足させました。
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勤評反対闘争 369ページ

 1957年、政府・自民党は、教育の権力統制と日教組対策を目的として、教師にたいする勤務評定の実施を強行。それは、教育委員公選制の廃止・任命制への切りかえ、教科書検定制度の強化などと結びついたものでした。戦前、教え子を戦場に送った経験をもつ教育労働者は、国家権力から民主教育をまもるためにたちあがり、ひろく国民諸階層とともに各地に地域共闘組織をつくって全国統一行動へと発展させました。
 勤務評定そのものは阻止できませんでしたが、国民の教育への関心を高めるとともに、地域での持続的な共同行動=統一戦線を基礎に闘うことの重要性をあきらかにしました。
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警職法反対闘争 369ページ

 1958年、戦争犯罪人の経歴をもつ岸信介を首班とする内閣は、大衆運動弾圧のために、警察官の権限強化をねらって、警察官職務執行法 (警職法)改悪案を国会に提出しました。それにたいして「オイコラ警察復活反対」「デートもできない警職法反対」といったわかりやすいスローガンをかかげて、労働者・国民の反対世論をもりあげ、 国労、炭労、全逓、全電通、日教組、全国金属、合化労連などがストライキや時間内職場集会で抗議し、参加人員は450万人に達しました。とくに国労は、スト権がはく奪されて以後初めてのストライキを行ない、法案を審議未了・廃案にしました。
 こうして、1956年の小選挙区反対につづいて、日本共産党、日本社会党、総評、全労会議(のちに同盟に合流)などをふくむ国民的統一行動で、反動法案をつぶすという大きな成果をあげ、歴史的な60年安保闘争の発展につながっていきました。
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安保闘争 370ページ

 1960年の日米安保条約の改定は、米軍への「基地提供」だけでなく、「日米共同作戦」「日米経済協力」など軍事同盟としての内容を強化するとともに、軍事的・政治的・経済的従属をいっそう固定化・強化しようとするものでした。このたくらみにたいし1960年の安保条約改定反対闘争(安保闘争)が、日米反動支配層にたいする一大政治闘争として全国民的規模で発展しました。
 1959年、安保改定阻上国民会議(安保共闘)が結成され、日本社会党、日本共産党(オブザーバー加盟)、総評、中立労連、日農をふくむ138団体の中央組織を結集しました。そして全国約2000か所に地域共闘組織がつくられ、安保闘争は、国民的な政治闘争に発展しました。こうした全国的、地方・地域的な統一戦線がたたかいの柱となり、国会は、約1カ月間、連日安保共闘のデモに包囲されるという状況になりました。国労など多くの労働組合によって3回にわたってストライキ闘争が組まれ、6月4日のストには640万人が参加しました。
 こうしたたたかいの高揚のなかで、岸内閣は安保条約の改定を強行したものの、ついに退陣に追い込まれ、同時にアイゼンハワー米大統領の訪日も中止せざるをえなくなりました。安保共闘という統一戦線組織が生みだされたことは画期的なたたかいの成果です。
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三井三池闘争 370ページ

 1959年1月から1960年11月にいたる1年10か月にわたってたたかわれた三井三池炭鉱の6000人におよぶ「人減らし合理化」反対闘争のことです。財界・大企業は、「高度成長」のなかで、日本の産業構造を重化学工業中心に編成替えするために、そのエネルギー源をアメリカに追随して石炭から石油に転換しようとします。そのため日本の石炭産業をとりつぶすための大がかりな「合理化」に乗り出し、その突破口として、当時日本最強といわれた三井三池炭鉱労働組合にたいして攻撃を集中し、日本の労働組合運動全体の弱体化をねらうものでした。アメリカに従属した日本のエネルギー政策は、石炭から石油への転換、および「原子力の平和利用」の名のもとで原発推進政策としてすすめられていきました。
 三池の労働者は、長年築きあげてきた職場組織と居住組織を基礎に、二百数十日におよぶ無期限ストライキを決行し、会社・全労会議・民社党が一体となった第二組合づくりと警察・暴力団などの暴力的な攻撃にも届せず、一歩もひかず、英雄的にたたかいました。「三池とともにたたかおう」は、全国の労働組合の共通のスロ一ガンとなり、のべ37万人におよぶ全国から現地への動員、世界労連やフランス炭労などからの国際的支援をふくむ20億円にのぼる資金カンパがよせられ、全国各地に「三池を守る会」がつくられ、安保闘争と結びついて大闘争に発展しました。しかし、石炭産業の全国的統一闘争はできず、また現地のストライキ支援にたたかいが狭まるなどの弱点もありました。
 結局、安保条約は改定され、三池労働組合幹部をねらい撃ちにした1278人の指名解雇も阻止できず、三池闘争は敗北します。しかし、これらの闘争の高揚は、全国の労働者・国民を勇気づけ、1960年代に多様な運動が全国の職場・地域から発展していく源泉となり、またその後の「合理化」反対闘争の教訓もつくりだしました。
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革新自治体の敗北 372ページ

 革新自治体とは、60年代後半から70年代にかけて、社共統一を軸に自治体レベルでの政策協定、組織協定にもとづいて民主勢力が持続的な共闘で首長を実現した地方自治体のこと。1967年に東京都知事選で美濃部良吉が当選し、革新都政が実現しました。この地域的な統一戦線の発展で、革新自治体は70年代に急速に全国に増大し、73年には6大都市で革新市長が、77年には革新自治体のもとで暮らす人は4848万人、日本の総人口42.9%と最高に達しました。自治体数では79年に216自治体にまで拡大しました。その後、反共、反動勢力による革新分断の策動、80年1月の「社公合意」による日本社会党の路線転換のなかで、「社共統一」が解体し、革新統一の分裂が促進され、革新自治体は敗北していきました。
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労働法制改悪 374ページ

 1990年代に入ると、政府・労働省(当時)は、雇用・労働分野での規制緩和を求める財界の要求に応じて労働法制の改悪をすすめます。1996年の労働者派遣法改悪(対象業務を16から26への拡大)、1997年6月には労働基準法の女子保護規定の撤廃(1999年4月施行)、大学教員任期制法、国立研究所研究員任期制法の成立と規制緩和のスピードは急上昇します。1998年3月には、「契約期間の上限の延長」、「変形労働時間制」、「一斉休憩」、「時間外労働」「裁量労働」など労働者の権利保障という視点からたいへん重大な問題をふくんだ労働基準法の大改悪がおこなわれました。1999年にはふたたび労働者派遣法の改悪がおこなわれ、派遣事業を原則自由化しました。
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事実上の共同行動 374ページ

 1997年11月、労働法制改悪阻止のために全労連と連合が同じ日に労働省(現在の厚生労働省)前に座り込みが行われ、事実上の「一日共闘」が実現しました。98年4~5月の労働法制反対の座り込みや集会で、全労連、連合の労働者同士のエールの交換が相次いで起こりました。こうした連帯の動きのなかで、99年、連合加盟の海員組合、全労連加盟の建交労、全労協加盟の国労など20組合が参加して「周辺事態法反対」の共闘が実現し、02年には「有事法制」に反対する共同闘争体制が実現しました。
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2011年東日本大震災と福島原発事故 375ページ

 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震によってもたらされた災害とこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害のこと。この地震は国内観測史上最大規模で北海道から千葉県にいたる太平洋岸に大規模な津波をもたらし、死者・行方不明者は1万8000人を超えました。福島県双葉郡の東京電力福島第一原子力発電所も10メートル超の津波に襲われ、すべての電源系統を喪失し、炉心冷却ができなくなり、炉心溶融(メルトダウン)が発生し、水素爆発という大事故をひき起こし、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展しました。この事故は国際原子力事象評価尺度で最悪のレベル7、チェルノブイリ原子力発電所事故と同じに位置付けられています。放射性物質を広範囲にまき散らし、放射能汚染は各地に広がり、周辺自治体からの避難者は推定12万人におよびました。
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