基礎理論コース QRコード収録項目

第9章 未来社会を考える

第一部 哲学 第2章 第3章
第二部 経済 第4章 第5章 第6章
第三部 階級闘争論 第7章 第8章 第9章(このページ)

【コラム】スターリンの独裁体制(ソ連におけるスターリンの独裁体制〈第7章〉、集団農場〈コルホーズ〉、大量の囚人労働、大弾圧=『大粛清』)

【コラム】「環境と人間」をつくりかえる長期の闘争


●IoT   ●『国家と革命』   ●『ゴータ綱領批判』
●スターリン   ●ネップ   ●市場経済の弾力性や効率性
●抗日戦争

第1節


IoT 385ページ

 IoT(アイ・オー・ティー)とは、「Internet of Things」の略で、モノにセンサーと通信機能が組み込まれて直接インターネットに繋がり、直接通信できるような仕組みのことです。パソコンやスマホで構成されていたインターネット社会に、家や職場、街中のあらゆるモノを取り込み、お互いの情報や機能をシームレスにやり取りし、活用する社会、「世の中全体がインターネットに繋がっている状態」の社会と説明されています。
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第2節

【コラム】スターリンの独裁体制(ソ連におけるスターリンの独裁体制〈第7章〉、集団農場〈コルホーズ〉、大量の囚人労働、大弾圧=『大粛清』) 395ページ

 レーニンは、1923年に開かれた第12回党大会に際して、代議員にあてた手紙で、「スターリンは粗暴すぎる」、この欠点が党の将来に「決定的な意義をもつことになりかねない」と述べ、スターリンを書記長から解任することを求めました。しかし、当時のソ連共産党の幹部には、この指摘の意味を正面から受け止められる人物はいませんでした。レーニン自身も、スターリンとのたたかいを完遂することなく世を去りました。レーニンが亡くなると、そのあとたくみなやり方でソ連共産党・政府の実権を握ったスターリンは、それまでの集団的な指導と民主的な議論を重んじていた党・政府の体制を破壊し、自らの権力を確立していきました。

 レーニンの死後、たくみなやり方でソ連共産党・政府の実権を握ったスターリンは、それまでの集団的な指導と民主的な議論を重んじていた党・政府の体制を破壊し、自らの権力を確立しました。ソ連の指導者となったスターリンは、レーニンが打ち出した市場経済を活用しながら社会主義へ向かう路線=「新経済政策」(ネップ)を打ち切り、1929年から30年にかけて、農民を上からの命令で強制的に集団農場(コルホーズ)に追い込むという暴挙を強行しました。これに反対した農民は、シベリアなどに強制的に送られ強制労働をしいられ、その犠牲者は数百万人といわれています。

 1920年後半頃から、スターリンは、大運河の建設、銅、金、石炭、木材等々の採掘や伐採をはじめ急速に工業化を進めるための労働力として政治犯を含む大量の囚人を強制的に労働させました。1930年代、スターリンは社会主義の原則を投げ捨てて共産党幹部や軍人、知識人、国民大衆を大量に逮捕し、投獄し、処刑するという大粛清、大弾圧をおこなうことによって全面的な専制・独裁の体制を確立しました。特に1936~38年にかけてブハーリン、カーメネフらの党と政府の幹部、赤軍将校を裁判にかけ、ソ連の指導者暗殺、体制の転覆をはかったという口実で死刑にするなど、逮捕者250万人のうち、処刑68万余、獄死16万余といわれています。以後スターリンは、党の大会さえも開かないなど、党運営のルールを踏みにじって独裁者となっていきました。その犠牲となった数は数百万人とも数千万人ともいわれています。

 その背景には、個人の尊厳を前提とする民主主義が、当時のソ連社会に十分根を下ろしていなかったこと、同時に、ソ連共産党が、民主的な組織運営の面で未熟だったことがあると考えられます。また、レーニン死後のソ連は科学的社会主義の原則をふみはずし、国内的には専制主義・官僚主義の体制をつよめ、対外的には干渉と侵略、覇権主義の道をすすんで、ついに解体にいたりました。

か読むことができず、しかも帝国主義戦争のもとでの革命、ロシア皇帝の専制支配などにより、革命の平和的移行が困難であった当時のロシアの歴史的条件を反映して、強力革命不可避論、少数者革命論、未来社会を生産物の分配を基準にとらえる共産主義社会の"二段階発展論"など、マルクス、エンゲルスの理論の誤った理解にもとづく、レーニン理論が定式化されています。

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『国家と革命』 393ページ

 レーニンが、ロシア革命のさなか、1917年8月から9月にかけて執筆した著作。マルクス、エンゲルスの国家論を検討し、カウツキーやプレハーノフらの日和見主義の歪曲から擁護し、共産主義社会の発展段階や国家の死滅などについて探求した著作で、後の革命運動に極めて大きな影響を与えました。レーニンは、マルクス、エンゲルスのあと、科学的社会主義の理論のもっともすぐれた研究者、実践者でした。しかし、レーニンの時代はマルクス、エンゲルスの文献はごく限られたものしか読むことができず、しかも帝国主義戦争のもとでの革命、ロシア皇帝の専制支配などにより、革命の平和的移行が困難であった当時のロシアの歴史的条件を反映して、強力革命不可避論、少数者革命論、未来社会を生産物の分配を基準にとらえる共産主義社会の"二段階発展論"など、マルクス、エンゲルスの理論の誤った理解にもとづく、レーニン理論が定式化されています。

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ゴータ綱領批判』 393ページ

 1875年、ドイツにおいて社会民主労働者党(アイゼナハ派)と全ドイツ労働者総同盟(ラサール派)がゴータ市で合同大会を開きドイツ社会主義労働者党を結成することを決め、綱領草案を公表しました。この草案に対しマルクスが詳細な評注を書いて、アイゼナハ派の幹部に送った文書が『ゴータ綱領批判』です。資本主義社会から共産主義社会への過渡期の諸問題,共産主義社会の国家制度の歴史的性格など国家や未来社会についての命題が書かれていますが、体系的な論文ではなく綱領草案を逐条的に批判する形で書かれたものです。したがって、この中でマルクスが述べている共産主義社会における分配方式についても、綱領草案やラサール派の分配論に対する批判として、おおよそこうなるだろうという考えを示したもので、全面的な形で未来社会論を展開したものではありません。

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スターリン 394ページ

 1878~1953年。レーニンの死後、トロツキー、カーメネフ、ブハーリンなどの党幹部を排除してソ連の党と国家の最高指導者となりました。レーニンは晩年スターリンの大ロシア民族主義や粗暴さを批判して書記長の地位をはずすよう「遺言」を残しますが、いかされませんでした。共産党幹部や軍人、知識人、国民大衆を大量に逮捕し、投獄し、処刑する大粛清をするなどの重大な誤りをおかしました。さらに、スターリンはレーニンが打ちだした市場経済を活用しながら社会主義へ向かう路線=「新経済政策」を打ち切り、1929~30年にかけて、農民を上からの命令で強制的に集団農場に追い込むという暴挙を強行しました。対外政策でも、ポーランドやバルト三国の併合(1939年)、ヤルタ秘密協定(1945年2月)で千島列島のソ連への帰属など、社会主義とは無縁な領土拡張政策へ転換させました。ソ連を人間抑圧型社会に変質させた独裁者でした。
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ネップ 395ページ

 ネップとはレーニンがおこなった「新経済政策」のことです。ロシア革命直後の革命政権は、農民から余剰穀物を強制徴発していました(「戦時共産主義」)が、この矛盾が激化するなか、レーニンが試行錯誤のうえたどりついたのが、市場経済を活用しながら社会主義へむかう路線=「新経済政策」でした。それまでの「市場経済=敵」という考え方からの大きな転換でした。
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第3節


【コラム】「環境と人間」をつくりかえる長期の闘争 397ページ


 マルクスは、パリコンミューン(1871年)の敗北後に声明として発表した『フランスにおける内乱』のなかで、「社会のより高度な形態をつくりだすためには、労働者階級は、一連の歴史的過程を通じて、環境と人間をつくりかえる長期の闘争を経過しなければならない」と書いています。「環境と人間をつくりかえる」とは何か、そのためになぜ長い「歴史的過程」が必要になるのか、についてマルクスは、『フランスにおける内乱』の準備のために書いた「草稿」で、それは「奴隷制のかせ」から抜け出すことと説明しています。
 資本主義のもとでも、大工業段階になると、生産者たちの労働はいやおうなしに結合され、共同作業が大規模に組織されて(「結合された生産者たち」)、一つの社会的労働力として資本家の指揮のもとではあるが、「結合された生産者たち」が生産過程を動かす体制がつくられてきます。マルクスは、これを「社会的生産経営」と呼んでいます。資本主義のもとにある「社会的生産経営」は資本の指揮下にあり、そこでの規律は、資本の支配と結びついた規律です。これをマルクスは「奴隷制のかせ」と呼びました。この体制をそのまま引継いだのでは、生産手段の所有が資本から別なものに変わっても自由な生産者の共同という新しい関係は生まれません。マルクスは、社会を変革し、生産手段を資本家の所有から社会の所有に移すことは比較的短い期間で済むだろうが、この「奴隷制のかせ」から解放されて、自由な生産者が対等平等の立場で協力し合う新しい人間関係をつくりだす闘いは、それに比べてもはるかに困難で時間がかかると考えていました。それは、労働者が幾世代にもわたって身につけてきた資本主義の悪習、古い殻を脱ぎ捨てて、自覚的な生産の主体に自分を発展させるという労働者自身の自己変革にはかなり長期の歴史過程が必要だと、マルクスは考えていたのです。このように自由な生産者が対等平等の立場で協力し合う新しい人間関係、新しい「結合した生産者たち」が生まれ「生産の新しい組織」をつくることを「環境と人間」をかえると言っています。
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市場経済の弾力性や効率性 399ページ

 市場経済というのは自由に商品が売買され、市場で競争し合うしくみ、体制のことです。そこには、需要と供給を調節する作用、生産性や生産活動の成績を測定したり比較する性質があります。市場経済を通して社会主義への道を歩む場合も、能率や製品のでき具合などが市場のなかで点検されることになります。そういう過程をへながら、経済の面でも一段一段、国民の目と経験で確かめながら、社会主義への段階をすすむ。社会主義的改革の推進にあたっては、計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営をすることが重要になります。
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抗日戦争 399ページ

 抗日戦争とは、1937~45年の日中全面戦争の中国側の呼称です。日本は、31年9月に「満州事変」をおこし中国の東北部を占領し、さらに隣接する中国華北地方への膨張をめざし、37年7月の廬溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけにして中国大陸への全面的な侵略戦争を開始しました。この民族の危機に直面して、中国共産党は35年8月に「八一宣言」を発表して抗日民族統一戦線の結成を呼びかけます。37年9月、蒋介石の国民政府と毛沢東の中国共産党がそれまでの対立抗争をやめ協力して日本の侵略に立ち向かう抗日民族統一戦線が成立(第2次国共合作)し、日本の侵略に徹底抗戦を続け、45年8月、日本がポツダム宣言を受諾して敗北し、抗日戦争は勝利をおさめました。
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